2012年6月23日土曜日

医療の不完全性

今日は我々の対応に対して手厳しい批判をお持ちの方にご意見をいただく日。


ついつい、「行っている個々の医療サービス内容の改善へむけての話」に終始しがちな設定である。そして、ついつい進んでいくのは、「高齢者医療という正解のない作業を行っていることを、患者側が飲み込むことができるかどうかだ。」という方向性だ。


しかし、その前に医療者自身の心の中に必要な大切なことがあると思う。
医療の大前提に「不完全な知識で、正解のない作業に、資源不足の体制で臨んでいる。」という事実がある。


まず大切なのは、それをそのまま、不完全な知識だからと逃げることもなく、正解がないからと逃げることもなく、資源がないからとやめてしまうことなく、医療者自身がしっかりとどこまでも対峙する覚悟をもつことである。


もちろん、この大前提を飲み込めない患者から医療者は強い批判をうける可能性がある。そして、医療者が彼らを理解のない患者だと切って捨てることは簡単である。しかし、命に関して、この現実を患者側が飲み込むのも、これもまた苦しい作業であることを理解しなければいけない。


大前提を飲み込めない患者に代わって、彼らからの厳しい批判にさらされながら、医療者がこの不十分さを、患者に対しての理解を押し付けることなく、自身への批判のまま飲み込み続けることも、医師の、「患者の苦しみを軽減する援助者」としての重要な役割なのかもしれない。批判のみを残し去っていく患者もいるが、それも医療者の役割の一つなのかもしれない。


むしろ、プロの医療者にとってはこの苦しみを、明日へのモチベーションへと変換できることが必須事項かもしれない。


たとえ技術が優れていて、知識が優れていても、この心構えがなければ、医療者、特に医「師」(士ではなく師)として進んでいくのはつらくなってしまうと思う。

2012年5月6日日曜日

メディカルラーニングバー!

一般社団法人LINKで展開するメディカルラーニングバー。

地域で頑張る、医療・介護・その他周辺産業の従事者同士の垣根を突破し、価値共創の種を撒きたい。本当に、地道な作業だが、全国に展開することで、多職種、他組織の交流を深めていきたい。


2012年3月13日火曜日

TPP議論雑感

ともすれば、各論の不都合を持ち出して反対意見に終始してしまうTPP議論に警鐘をならしたい。変化を恐れ、扉を閉ざしてしまうのは、まるで日本を安楽死させることを選んでいるということにつながることはないだろうか?

TPPについて、賛成反対を行う以前に重要なイシューがある。日本全体が、将来どのようにありたいのか、そして、どのような国際的貢献をしてくのか。そのビジョンのもとに、徹底的に戦略を議論し、その戦略を実行するための位置づけとしてTPPを考えるべきである。変化を恐れていても、もう、すでに、日本は人口構造という根本的な構造が大転換点を迎えている。この大転換点の先にどのような日本を作りたいのかを考えることが必要だと思う。今の日本を閉塞感のあるものと捉えるのはもうよそう。この転換点に生まれ、あたらしい日本の秩序、Japanese New Order の形成の時代に自分が生まれたことを心から感謝したいと思う。

ビジョンをもとう。ビジョンは政府に責任を求めるものでは決してない。将来の子孫にどのような世界で暮らしてほしいのかを考える、人間として当たり前の作業である。この大切な作業を、僕たちは日々の中で忘れてしまったり、または他力に任せてはいないだろうか?僕たち日本人の一人一人の心の中に、30年後の日本のビジョンをもとう。そして、そこへ向かうには、明日、目が覚めたときに、自分が何をすればいいのかをイメージしよう。TPPに対して、賛成・反対を論じる前に、僕たち一人一人の心の中に、30年後の日本をどのようなものにしたいのか、そのビジョンがあるかどうかを問い直すことの必要性を感じる。

グローバリゼーションは平らな世界を作るのではなく、spike状に分布する世界を作るといわれる。お金が自由に行き来し、情報が自由に行き来し、物も自由に動くようになる。では、我々はどこに住みたいか?おそらく人々は多様性やリーダーシップや寛容性や美しさや気候などを軸に、居心地のいい場所の居心地のいいコミュニティーへと集中していく。それは、自然に人口密集のメガ地域を生み出し、都市が世界的に限られた場所に集約されていく姿になる。

これは、リチャードフロリダのクリエイティブ都市論の内容だ。しかし、このような世界への移行過程では、お金や情報を囲い込む既得権が大きく抵抗する。これら抵抗者は、もちろん、今現在お金や情報を多く独占している存在であり、すなわちこれは、権力者だ。

お金や情報を自由に動かし、ものが自由に動き出せば、それらの呪縛から人は解き放たれ、どの場所で誰と時間を過ごすのかを重点的に考えるようになるだろう。そうなったとき、僕は日本は、人々が目指す素晴らしいエリアになりえると考える。

TPPといえばアメリカの言いなりという感がある。その大きなテーマとして格差社会が存在する。格差社会は確かに問題だ。その格差の流動性が固定されてしまうと悲劇だ。特に同一地域での格差は特に問題である。貧しい国でも格差の少ない社会では安定性が高いともいわれる。しかし、少なくとも同一地域内での格差は避ける必要があります。

グローバルな非格差社会を作るには、アメリカの自由主義ルールではない新秩序の形成が必要である。決してアメリカのいいなりではない。そのチャレンジとして、日本が何ができるのかを考えるべきだと思う。アメリカとは違う社会を作り出すためのアクションとして、米国対日本という構図ではなく、環太平洋エリアという多国で交渉する舞台でどのようにふるまえるのかが鍵だろう。また、アジア圏の合意形成型の民族の特性は、アメリカの自由主義的格差社会の形成に対してバランスを与える文化でもあると思う。

安全保障を完全にゆだねているアメリカには言いなりにならざるを得ないという意見もある。しかし、日本のすぐ向かいには中国の存在があるために、安全保障上、日本という場所を無視することはできない。日本は対中国戦略にとって極めて重要な要衝である。この戦略的地理的位置の有利性も駆使しつつ、TPPも戦略的に利用し、国際的な新秩序の旗振り役として日本がリーダーシップを発揮することはできないか。冷戦後、世界戦略として最重要なのは、中国とアメリカの構図である。独力で中国に対抗する方法はもはや得策ではない。日本は中国にとっての第一列島線である。第二列島線を形成するアジア諸国と一体となって、中国の南シナ海覇権、インド洋覇権、北極覇権からアイルランドへ抜ける覇権形成を目指すグローバルな中国戦略に対抗しなければいけない。さもなければ、中国の戦略に取り込まれる国家となるだろう。

TPPを踏み台として、環太平洋領域において、中国と対抗するために、日本が加わることで始めて可能になる今までの米国戦略一辺倒ではない新秩序の形成を目指すのだ。アメリカを巻き込んだ環太平洋での秩序を基本に、インド圏と連携をとりながら中国とのバランスをとることのできる唯一の国家となる方法もあり得ると考える。

繰り返しになるが、大問題なのは、大前提となる国家像があいまいになってしまっていることだ。日本にはまだカネ(経済力)がある。それが失われる前に、日本のよさが最大限発揮される未来の国家像を打ち出す必要がある。ただ、時間はあまりない。

経済成長によって自ら夢を描く能力を奪い去られたあと、その成長が失われ高齢社会を迎える日本は、飛ぶ羽が一部抜け落ちた鳥が、空に放たれたごとくなのかもしれない。しかし、落ちるまでにはまだ距離があると思う。もう一度飛ぶために、羽ばたくことを全力で行ってもいいと思うのです。ビジョンとそれに向かって飛ぶ意志でもう一度羽をとりもどしたい。

変化が必要な時には、あらゆる変化をチャンスとして見つめなおしていくことが必要だ。TPPを千載一遇のチャンスかもしれないと考えることが必要だ。まずは、そう考えることが必要だ。少なくとも、自らの環境変化を拒む根拠として、TPPをリスク視する視座の持ち方に居座り続ける態度は改めるべきである。

ビジョナリーな国家となり、そのビジョン実現のための打ち手としてTPPを最大限活用してほしいと思う。

参考文献

2012年2月26日日曜日

日本の未来は過去の延長上にはない

恐ろしい勢いで高齢化が進んでいる。
そして、恐ろしい勢いで子供が減少している。
この恐ろしさを日本人は認識できているのだろうか?

これは面白い。
統計データの推移から、現実を見せつけてくれる。
ごく簡単な基本的なデータのみを示そう。

平均余命はこうだ。
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高齢者の増加はこうだ。
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そして、子供の減少についてはこうだ。
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施策をあれこれ発言する前に、全国民に現状をもっと突きつける作業が必要だ。
日本を空中分解させずに、未来へつなぐのは、今生きている国民しかできない。
方法論の前に、どこまで危機意識を持てるかに注力すべきだ。
特にすべての小学校、中学校、高校、大学、マスメディア、企業の教育担当者に日本の将来に対して考える場をすべての人々に繰り返し提供してほしい。
そして、世界が変化していることを伝えてほしい。

大きな変化の波はもう立ち上がっている。
そして猛烈な勢いでその波が迫ってきていることを知ってほしい。

伝えるために時間はもうわずかしかない。

2012年2月8日水曜日

ケアされる存在が放つエネルギー

ケアされる存在からケアする存在に対して放たれる、ケアをしなさいというエネルギーが存在するようだ。


それは、自らを犠牲にして子供を守る親の本能が代表的なのかもしれない。

それは、足の不自由な人間が信号横断中に倒れたのを見た時、赤信号になっても車を制止し、彼を起こし安全な所へ移動させるモチベーションかもしれない。

これはギブ&テイクでもなく、功利的でもない。


介護の舞台に目をやってみよう。

決して治癒することのない嚥下困難の中で誤嚥を繰り返す施設の入居者がいる。

苦しそうな視線を送る患者がそこにいる。

医師と患者と家族の間では、胃瘻や点滴などの治療は行わない同意がなされている。

もちろん、急変時に救急搬送はしないことになっている。


私は夜勤のヘルパーとして働いている。

私には、「何もしなくてもいい。ただ、見守っていればいい。誰も責めないし、このまま見守ることが、本人も家族も希望していることである。もちろん、救急車も呼ばなくてもいい。ここで最期をむかえることが、それが一番皆が望んでいることだ。」という言葉が申し送られている。

しかし、私は苦しい。元気な時の彼の姿を覚えているからという寂しさとはまた違う苦しさだ。

何をしなくてもいいし、何をすべきでもない。

考えれば、気楽な役割である。

しかし、本当に、苦しい。


何もしないという同意が全員に得られたとしても、ケアされる存在から放たれた得体のしれない何かのエネルギーが私を苦しめている。


恐る恐る、のぞいた部屋には、穏やかに、何事もなく、ただ、呼吸のない彼が横たわっていた。

淡々と家族に連絡をし、医師へ連絡をする。


医師は患者と私にお疲れ様でしたと言った。

そして、家族は本気で涙をうかべて、今までありがとう、と私に言った。

私は、通常の業務に戻った。


しかし、いつもだ。何もしないという同意が得られたとしても、弱り行くケアされる存在から放たれる得体のしれないエネルギーが私を苦しめる。そのエネルギーはケアされる存在からもっとも近くにいるケアをする存在に、情け容赦なく降り注ぐようだ。

はだかのいのち

「はだかのいのち」 高谷清

 『心身ともに重い障害児者は、人間としての「付加価値」が何もないようにみえる。自分で移動さえできず、しゃべれず、理解力はきわめて低く、生きていくために全面的に他の人助けが必要である。人間が「いのち」以外の「付加価値」で価値評価されるとしたら、彼らは成人しても労働能力はないし、学力・知力やスポーツ能力もない。のみならず人の全面的な介助なしには生きられない彼らは「価値ゼロ」である。彼らにあるのは「いのち」そのものだけである。「いのち」しかもっていないのだから、彼らが大事にされるということは、だれもがひとつずつもっている「いのち」が大事にされるということであり、彼らが認められないとしたら、「いのち」が認められないということになる。』

 『少なくとも、いのちを守り、健康を回復するための看護は、いのちはみんなはだかで、いのちそのものが大事にされるということが基本であるのだろう。
重い障害をもつ人たちは、いのちだけがはだかで存在している人たちであるといえる。彼らの存在はそのものがいのちであり、もし付加価値のみに人間の価値をおけば、彼らの存在は無である。私は、あるがままを価値観ぬきで、受けとめることの大事さを思うのである。』

最近、胃瘻の是非が問われることが増えてきた。しかし、重度障害の方々で胃瘻を行っている人々からは、この論点に対して反発が生まれている。胃瘻は、是か非か。そこに、新たな視点を高谷氏は与えてくれているような気がする。

健康な命が変化して障がい者の命になるのではない。

人間は生まれたときは自分では何もできない、「はだかのいのち」の状態で生まれる。
そして、まずはじめに、そこに親の愛が覆いかぶさり、その命を守る行為が始まる。そして、歳を重ね、教育を通じて、さまざまな生きていくための「殻」をその「はだかのいのち」は身に着けていく。そして自立する。

障がいは、その殻が壊れた状態と高谷氏はいう。この状態は、いのちが一部むき出しになってしまっている状態ともいえる。ケアとはそこをうめ、一部はだかになってしまった「いのち」が、壊れないように守る行為だという。障がいは、その中に包含される「いのち」には何の価値変化ももたらさないというのだ。

健康者が障がい者に変化すると考えると、まるでいのちの価値が変化したように感じてしまう。しかし、高谷氏は、いのちの価値そのものは全く変化しない、と説く。

では、殻が壊れて、そのままでは壊れてしまうはだかのいのちを守るために必要なケアがあり、その一つが胃瘻だと考えればどうだろうか。たとえどんな状況であったとしても、その行為を否定できるだろうか?

胃瘻が是か非かを論じる前に、はだかのいのちを守るためにケアを提供している人々を守るための、社会のケアの可能性を論じるべきだはないだろうか。これは、子供を守る女性の社会進出の問題とも重なる。
はだかのいのちを守るためにケアを行う人々に対して、社会がケアを実現することに、本当に知恵と汗が注がれているだろうか。

人はやがて確実に死ぬ。
この限られた時間が過ぎるまでの間、その殻をまもってあげようとする人々の行動、肉親の行動を、誰一人として否定することはできないと思う。たとえ、高齢者であったとしても否定はできるまい。胃瘻を行い、その命を終わりが来るその日まで、そのはだかになったいのちを守るという、いのちを大切にする行為を誰が否定できるのか?

はだかのいのちを守る人々を、さらにその外側から守る周囲の人がいて、さらにそれ守ろうとする社会がある。そんな、いのちを出発点とするケアの連鎖が起きる日本になってほしい。

高齢社会を乗り切った先に、そんな日本になることを期待したい、いや、そんな日本にしたいと強く思う。

2012年1月19日木曜日

医療財源の不足

医療財源が不足している。
そう発言するのは容易に過ぎる気がする。

本当のニーズに応え、考え抜かれたプロセスを極めつくしてからでのみ財源問題を語る資格があると思う。資源がないので無理だ、と訴える資格があるのは、その背景に本当の意味で卓越した医療経営システムをもつもののみだ。そして、当然自分は、その資格はまだないと思っている。

「医療財源はない。」ではなく、「医療財源はある。」
足りないのはイノベーションである。
そう、考えよう。
もちろん、その定量的な根拠はない。なぜなら、それはイノベーションによってこれから生み出していくものだからである。

国は全体観をもって医療に資源配分を行っていると僕は信じている。
まあ、今は国を疑う人々が多くいるが、ならば、日本を変えるか日本を出ていけばいい。
これは、僕が信じているというだけである。

企業の地力は現場を見つめ、限られた資源を見つめ、優秀なイノベーションを生み出す中間管理職にあるともいわれる。逆に、現状の延長でのみ考え、資源がないと叫ぶ中間管理職の多い企業は、競争優位を保てず滅ぶという。

もっと資源配分をと叫ぶ前に、現場の医療者は、窮屈なその中でイノベーションを生み出そうとするのが本来業務ではないだろうか。現場をみつめ、限られた資源の中で最大のパフォーマンスを出すべき努力をするのが、診療に携わるものの使命ではないだろうか。

医療者として、財源不足を叫ぶことに時間資源を費やすのではなく、イノベーションを起こすほうに時間資源を費やしたい。そのほうが、世界をより良くすることにつながると思う。

2012年1月11日水曜日

先行ビジネスイノベーションに学ぶ医療へ

「医療はビジネスではない」という言葉をよく聞く。
果たして本当だろうか。

営利や非営利を問わず、また、組織形態を問わず、その事業目的を実現するための活動の総体をいう。したがって、ビジネスの主体者としては株式会社などのような営利企業だけなく、NPOなどの非営利活動法人や住民サービス提供などを行う行政組織等を含み、個人または法人組織などの事業体がそれぞれの事業目的実現のために、人・物・金・情報などの諸資源を活用して行う活動全体を意味する。

この定義を用いるならば、間違いなく「医療はビジネスである」。

「医療はビジネスではない」という言葉を発する医療者は、当然のごとくビジネスの知恵を医療に生かそうとはしない。

目覚ましく進化するさまざまなビジネスソリューションを取り込みながら、医療というサービスが世の中で発展していくことは素晴らしいことであると思う。その可能性を追求しないのは医療者としては罪悪ではないだろうか。

コンビニ受診をする患者が求める価値を、そのまま、もしくは、別の形で提供することはできないだろうか?
救急車をタクシー代わりに使う患者が求める価値を、そのまま、もしくは別の形で提供することはできないだろうか?
医療業界を眺めると、規模の非効率性が働いているとされるが、規模の効率性を働かせるモデルが出現すれば業界構造が一転することになりはしないか?

宅配便のクロネコヤマトの戦略や、コンビニのドミナント戦略、楽天のプラットフォーム戦略、アマゾンの・・・・・。
これらはすべて、顧客の価値を追求する上で、新たなビジネスイノベーションを生み出し、それが業界構造を書き換えた例である。同じように、患者にとっての医療サービスの価値を追求する目的で、これらのビジネスの先行事例に学び、新たなイノベーションを生み出し、それが業界構造を書き換える可能性はないだろうか。
もちろん、既存の変化できないプレーヤーにとっては、この変化は恐怖以外の何物でもない。

変化を恐れる医療者となるか、変化を起こそうとする医療者となるかは、医療者個々人の選択だろう。
僕は「恐れる」より「挑戦する」ことを選びたい。

2012年1月6日金曜日

Learn の前に Un-learn 。

在宅医療において多職種連携を行おうとすると、非常に多くのコミュニケーションを必要とする。しかし、そのコミュニケーションがすべて円滑にいっているとは言い難い。前提の共有がまずなされていないなどというお粗末なものも非常に多いが、もっと重要なことは同じものを見ていても、視座が違うために全く違う景色にみえていることを認識していないことである。これは、自戒も込めて真実である。

非常に幼い間は、自分の見ている風景と同じものが相手にも見えているという認識であるが、2歳ごろになるとそれが違うことを認識しはじめるという。もし、視座が違えば違って見えるということを認識していないならば、ある意味2歳未満ということだろうか。

視座が異なれば違う風景を見ることができる。それを視野という。
その中で今注目しているものがある。それを視点という。
そして、その視野の中で今見ているものを認識すること、すなわち、視点/視野から、意味合いを導き出すのが思考の構造だともいわれる。
とするならば、同じ視点に注目していても、全く異なる意味合いを持ってしまうこととなる。

他職種の視座が異なることを認識し、その視座に立ってみる。そして、そこから見えるものを学び取り、その意味を理解するように努めよう。視座がたとえ、我々とは全く異質なものであったとしても、そこから見える景色の理解に努めてみよう。ひとつの視座に固まってしまえば、世界は立体的ではなく平面的なものにしか見えない。そうなると自分以外の視座に立つすべての人々に対して価値を提供するなんて無理だろう。自分の視座から見える景色の裏側で世界が崩れていっていることにも気づかないだろう。

時には自分の視座から見える風景を磨き上げることをすてて、他の視座へ移動することが必要だと思う。そして、移動した先の視座で、同じものを全く違う意味合いをもって学びなおすことが、世界が立体的であることを理解するには不可欠だと思う。この視座の移動は今まで学んだ世界を捨てるという意味合いで Learn とは違う Un-learn の作業ともいえる。この作業を楽しめる学びほぐしの空間プロデュースのプロジェクトを数名の有志で昨日の夜から開始した。

もしかすると、他職種連携が必要で、かつ専門性が高い領域を扱う医療においては、他の視座を理解するということだけでは不十分で、二つの分野のスペシャリティーをもつことを目指さなければいけないのかもしれない。こう考えると思いつく高名な地域医療の猛者は医療以外の分野にも造詣が深いことが多いのもうなづける。

一時期もてはやされた一つの専門性とコミュニケーション能力で広がるT型の先に、世界の立体感を高いレベルで腹落ちさせることのできるΠ型の能力を持つことが、生活の中で医療をどのように組み込んでいくのかを扱う、かかりつけ医療・在宅医療・家庭医療などにおいては必要不可欠な能力なのだろう。医学的な意味合いの追求が的外れになっていることに気付かないことは、生活医療のなかでは間違いなく罪である。

最近、3歳のわが子が何度も何度も「こっち見て!こっち来て!!」と話しかけてくる。

2012年1月4日水曜日

日本の財政と高齢者産業、そして、医療経営。

今の日本の財政は増税や国債発行や低金利などの生命維持装置では回復しないといわれる。延長上に未来はないというのである。デフレギャップ下において、280兆円とも言われる対外資産と1000兆円と言われる国内資産をどのように回しさらなる価値を生むのかが重要であることは確からしい。では、どうすればよいのか?

解決策の定石としては、この多くの資産を流動化させ、既存事業の淘汰・再編・新陳代謝を早める必要があり、さらに新たな雇用を生み出すことが必要だといわれる。しかし、流動化が必要な資産をもつ(受け取り予定年金含む)人々とは、個人レベルにおいては年金をこれから受け取る世代の高齢者であり、組織レベルでは既存の成功し成熟した組織や産業となる。しかも、彼らにとって、魅力的なサービスや市場が大挙して供給される気配はない。財布のひもは固いままである。無理に開かせようとしたところで、これらの古い力が強く成熟している先進国では、政策的にも手を出すのはかなり困難であることは予想される。投票をする人間の多くが資産を持っていることを考えると、このような思考をもつ人材が政治家になることはほぼ不可能なのかもしれない。

ただ、このような状況下の中、高齢化により医療・介護に関しては、否応なく需要が増える産業となるという点で、また、供給過剰ではない点で最後の望みではあるのかもしれない。医療・介護を含む高齢者周辺の産業を淘汰・再編・新陳代謝を行い、多くの支出を高齢者が喜んで行うような質の高いサービスを可能な限り早いスピードで実現させることに、一抹の望みを託すことができるのかもしれない。

どうすればこのような動きが促進できるだろうか?この問いに対しては、残りの人生を憂いなくすごせるための、本当の意味での高齢者本位のビジネスプラットフォームを作ることで、いい事業と悪い事業を、経営の良し悪しも含めて厳しくスピード感をもって淘汰しつつ、いいもののみを結合し、さらに新規事業を生み出していくこのとのできる環境づくりを目指すことが、その方法として頭の中に浮かび上がってきた。医療者ももちろんその厳しい淘汰の環境で切磋琢磨しなければならない。

ならば、医療機関といえども安穏とした経営を行っている場合ではないと考えよう。逆に、安穏とした環境を維持しようと変革を行うことを厭えば、この一抹の望みすらも失ってしまうことになるのかもしれない。

将来「医療介護労働力が安い国=日本」となるなら。

今、介護を担うヘルパーの給与がよく問題視されている。また、医師はいまだに高所得とはされているものの、過酷な労働が明らかとなり、その賃金は決して魅力的なものではなくなってきている。これが、さらに進むことでどのようなことがおきるのか、少し考えてみた。

製造業の労働資源として国外の安い労働力へ企業が流れる現象が、もし、日本の医療者介護者の低賃金が進むことで、たとえば、中国をはじめ世界の都市部の医療介護労働者の賃金が、日本よりも高額になったとするならば、将来的に、世界が日本への医療介護資源への依存を進めようとする可能性があるとは考えられないだろうか。もちろん、国内で激増する高齢者がひと段落する30年後程度の話だが・・・。

ポスト高齢化社会の日本はこのようになっている可能性があるのかもしれない。

安くて高品質の労働力のおかげで、日本で医療は安く提供できる。
迎えた超絶高齢社会のために医療介護人材を大量に用意したため、若手の多くはその分野での労働経験が豊富だ。しかし、産業構造が荒廃し、今は安い労働を行うしかない。その一方で彼らの労働の質はめっぽういいようだ。
病院立地、もしくは、患者としてそれなりの療養生活を送るには質が高く安い医療・介護労働力を確保できる場所として日本は魅力のある場所だ。気候も穏便だし、交通インフラや通信インフラも整っている。居住に関して文化的・宗教的制約も少ないようだ。
大人口を擁するアジアへの医療産業進出を考える上でのステップとして日本は適している。
最高度の医療を提供する日本国外のアジアの病院治療へのアクセスも良好である。

日本は理想の老後を送る場所となるのかもしれない。

ポスト高齢化、ポスト経済大国の時代の日本にとって、良くも悪くも、安く質の高い労働力に支えられた医療介護産業立国がひとつの方法であるのかもしれない。と想像してしまった。