2012年2月26日日曜日

日本の未来は過去の延長上にはない

恐ろしい勢いで高齢化が進んでいる。
そして、恐ろしい勢いで子供が減少している。
この恐ろしさを日本人は認識できているのだろうか?

これは面白い。
統計データの推移から、現実を見せつけてくれる。
ごく簡単な基本的なデータのみを示そう。

平均余命はこうだ。
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高齢者の増加はこうだ。
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そして、子供の減少についてはこうだ。
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施策をあれこれ発言する前に、全国民に現状をもっと突きつける作業が必要だ。
日本を空中分解させずに、未来へつなぐのは、今生きている国民しかできない。
方法論の前に、どこまで危機意識を持てるかに注力すべきだ。
特にすべての小学校、中学校、高校、大学、マスメディア、企業の教育担当者に日本の将来に対して考える場をすべての人々に繰り返し提供してほしい。
そして、世界が変化していることを伝えてほしい。

大きな変化の波はもう立ち上がっている。
そして猛烈な勢いでその波が迫ってきていることを知ってほしい。

伝えるために時間はもうわずかしかない。

2012年2月8日水曜日

ケアされる存在が放つエネルギー

ケアされる存在からケアする存在に対して放たれる、ケアをしなさいというエネルギーが存在するようだ。


それは、自らを犠牲にして子供を守る親の本能が代表的なのかもしれない。

それは、足の不自由な人間が信号横断中に倒れたのを見た時、赤信号になっても車を制止し、彼を起こし安全な所へ移動させるモチベーションかもしれない。

これはギブ&テイクでもなく、功利的でもない。


介護の舞台に目をやってみよう。

決して治癒することのない嚥下困難の中で誤嚥を繰り返す施設の入居者がいる。

苦しそうな視線を送る患者がそこにいる。

医師と患者と家族の間では、胃瘻や点滴などの治療は行わない同意がなされている。

もちろん、急変時に救急搬送はしないことになっている。


私は夜勤のヘルパーとして働いている。

私には、「何もしなくてもいい。ただ、見守っていればいい。誰も責めないし、このまま見守ることが、本人も家族も希望していることである。もちろん、救急車も呼ばなくてもいい。ここで最期をむかえることが、それが一番皆が望んでいることだ。」という言葉が申し送られている。

しかし、私は苦しい。元気な時の彼の姿を覚えているからという寂しさとはまた違う苦しさだ。

何をしなくてもいいし、何をすべきでもない。

考えれば、気楽な役割である。

しかし、本当に、苦しい。


何もしないという同意が全員に得られたとしても、ケアされる存在から放たれた得体のしれない何かのエネルギーが私を苦しめている。


恐る恐る、のぞいた部屋には、穏やかに、何事もなく、ただ、呼吸のない彼が横たわっていた。

淡々と家族に連絡をし、医師へ連絡をする。


医師は患者と私にお疲れ様でしたと言った。

そして、家族は本気で涙をうかべて、今までありがとう、と私に言った。

私は、通常の業務に戻った。


しかし、いつもだ。何もしないという同意が得られたとしても、弱り行くケアされる存在から放たれる得体のしれないエネルギーが私を苦しめる。そのエネルギーはケアされる存在からもっとも近くにいるケアをする存在に、情け容赦なく降り注ぐようだ。

はだかのいのち

「はだかのいのち」 高谷清

 『心身ともに重い障害児者は、人間としての「付加価値」が何もないようにみえる。自分で移動さえできず、しゃべれず、理解力はきわめて低く、生きていくために全面的に他の人助けが必要である。人間が「いのち」以外の「付加価値」で価値評価されるとしたら、彼らは成人しても労働能力はないし、学力・知力やスポーツ能力もない。のみならず人の全面的な介助なしには生きられない彼らは「価値ゼロ」である。彼らにあるのは「いのち」そのものだけである。「いのち」しかもっていないのだから、彼らが大事にされるということは、だれもがひとつずつもっている「いのち」が大事にされるということであり、彼らが認められないとしたら、「いのち」が認められないということになる。』

 『少なくとも、いのちを守り、健康を回復するための看護は、いのちはみんなはだかで、いのちそのものが大事にされるということが基本であるのだろう。
重い障害をもつ人たちは、いのちだけがはだかで存在している人たちであるといえる。彼らの存在はそのものがいのちであり、もし付加価値のみに人間の価値をおけば、彼らの存在は無である。私は、あるがままを価値観ぬきで、受けとめることの大事さを思うのである。』

最近、胃瘻の是非が問われることが増えてきた。しかし、重度障害の方々で胃瘻を行っている人々からは、この論点に対して反発が生まれている。胃瘻は、是か非か。そこに、新たな視点を高谷氏は与えてくれているような気がする。

健康な命が変化して障がい者の命になるのではない。

人間は生まれたときは自分では何もできない、「はだかのいのち」の状態で生まれる。
そして、まずはじめに、そこに親の愛が覆いかぶさり、その命を守る行為が始まる。そして、歳を重ね、教育を通じて、さまざまな生きていくための「殻」をその「はだかのいのち」は身に着けていく。そして自立する。

障がいは、その殻が壊れた状態と高谷氏はいう。この状態は、いのちが一部むき出しになってしまっている状態ともいえる。ケアとはそこをうめ、一部はだかになってしまった「いのち」が、壊れないように守る行為だという。障がいは、その中に包含される「いのち」には何の価値変化ももたらさないというのだ。

健康者が障がい者に変化すると考えると、まるでいのちの価値が変化したように感じてしまう。しかし、高谷氏は、いのちの価値そのものは全く変化しない、と説く。

では、殻が壊れて、そのままでは壊れてしまうはだかのいのちを守るために必要なケアがあり、その一つが胃瘻だと考えればどうだろうか。たとえどんな状況であったとしても、その行為を否定できるだろうか?

胃瘻が是か非かを論じる前に、はだかのいのちを守るためにケアを提供している人々を守るための、社会のケアの可能性を論じるべきだはないだろうか。これは、子供を守る女性の社会進出の問題とも重なる。
はだかのいのちを守るためにケアを行う人々に対して、社会がケアを実現することに、本当に知恵と汗が注がれているだろうか。

人はやがて確実に死ぬ。
この限られた時間が過ぎるまでの間、その殻をまもってあげようとする人々の行動、肉親の行動を、誰一人として否定することはできないと思う。たとえ、高齢者であったとしても否定はできるまい。胃瘻を行い、その命を終わりが来るその日まで、そのはだかになったいのちを守るという、いのちを大切にする行為を誰が否定できるのか?

はだかのいのちを守る人々を、さらにその外側から守る周囲の人がいて、さらにそれ守ろうとする社会がある。そんな、いのちを出発点とするケアの連鎖が起きる日本になってほしい。

高齢社会を乗り切った先に、そんな日本になることを期待したい、いや、そんな日本にしたいと強く思う。