2013年7月25日木曜日

患者に支援者として認められる瞬間は突然にやってくる

僕たちはどのような時に患者さんの支えになることができるのでしょうか?

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患者さんの理解者として存在できるようになる特別な一日というのが存在する。それは、いつもと違う空気が漂っている。今までにはない心のうちが吐露され、新しい支援関係、理解関係が生まれる瞬間がある。それを見逃してはならない。(医師 新城拓也) 
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1296446/1314063/89675165 から要約。
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深く、深くうなずけます。本当に、これが訪れるのは瞬間です。これは、たとえば、自分が主治医であるからという長い付き合いがあるからこそ生まれるなどというものではありません。理解者ではなく医療技術者としての付き合いが長くなれば、かえってこの瞬間の訪れが難しくなるでしょう。そうなれば、自分ではない人間との新たな出会いのほうがよほど、この瞬間が訪れやすくなります。

目の前の患者さんのスピリチュアルな痛みに相対するときには、どんなに多忙であったとしても、自分の心を敏感にして、この瞬間の訪れを見逃さないように対峙する必要があります。この瞬間をうっかり無視すればそれは二度と訪れません。そして、本当の意味で「支援すること」は非常に難しくなります。

この特別な瞬間を見逃さずに数多く実感したことのある人間と、実感したことの少ない人間との間には支援者としてとても大きな力の隔たりがあります。
患者さんとの間に生まれる、この特別な瞬間を見逃さないように心を敏感にして
おかなければいけない。さもなければ、知らない間に患者さんのスピリチュアルな痛みを和らげるチャンスを踏み潰しながら歩いているのかもしれないのです。

患者の苦しみを他人の医療者が本当の意味で理解することはできない

僕たちが患者さんにとって役に立つことは可能でしょうか?

医療スキルは当然のことだと思います。
しかし、それと同等、いやそれ以上に、患者さんにとって大切なのは、僕たちがよき理解者であり、僕たちが患者さんから最後まで逃げない存在で居続けることなのではないでしょうか?

「他人の僕たちが、患者さんのことを本当の意味で理解することは到底難しい。患者さんの失われた時間を、僕たちは多分生きることができる。そんな関係の中で、患者さんの気持ちをわかったつもりになっても全くそれは一方的な思い上がりだろう。だがしかし、患者さんが、僕たちのことを理解者であると感じてもらうことは可能かもしれない。」(医師:小澤竹敏)

患者さん自身が本能的に感じる理解者としての人間が、一人でも増えれば、それがスピリテュアルな痛みを和らげることにつながります。

在宅医療をきっかけとして、患者さん達に出会う僕たちも、その一人の候補に入らなければいけません。そして、そのためには、自分自身の五感と心を研ぎすまさなければいけません。そして、どこまでも、逃げずに寄り添い続ける姿勢がなければいけません。もちろんこれは困難であり、どこまでいっても不十分な作業となるかもしれません。しかし、患者さんに関わるすべてのひとりひとりが、ここを目指し続けなければいけません。

2013年7月11日木曜日

食支援

在宅医療には食支援という重要な分野があります。

在宅医療において食事の問題は避けて通れない問題です。しかし、食支援ということに関して医師はどれぐらいの造詣があるのでしょうか?

食支援を段階で考えてみました。
食材からはじまり、栄養の内容、本人の嗜好や習慣の問題、メニューとそこに至る調理方法、料理の嚥下しやすさへむけての加工、歯や口腔機能の問題、嚥下機能・消化機能・認識機能の疾病や老化による問題。
このような順序で考えることができると思います。

医師にとって価値提供できるのは、実は、最後の段階で精一杯ではないでしょうか。しかして、その最後の段階で、患者のQOLは向上するのでしょうか。むしろ、前半の段階にQOLに寄与できる価値が存在するのではないでしょうか?さらに、医師はその最後の段階でのリスクを見いだし禁止するという行動になりがちです。そこにおける医師の価値は限定的であり、しかも制限的な要素が目立つ存在となります。

しかし、医師に期待されるのは、リスクを知り避けるだけではなく「どのリスクを取るのか?」を積極的に考えていくべきで、その危険性を最小化するために必要な介入を考えていかなければいけません。患者や介護者とじっくり相談して、どのリスクをどのような方法で取るのか。そして、そのリスクが生じたときに行うことも決める。これで、はじめて「食支援」といえると思います。